『読売新聞「大手小町」』 様々な文化の気持ち
- おおとり
- 2018年4月23日
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更新日:2018年6月26日
台湾は多民族の国家、原住民、客家人、閩南人などからなる多元民族の島、そして50年前まで日本統治下に有った(元日本)のため、情熱的な民風は日本人に合うと更にヒートアップする。


原住民文化
当時では番人などと呼ばれ台湾史上もっも虐げられた民族かもしれません。
平地に住む原住民と漢民族は土地争うなどで日本統治時代になるまで、台湾の漢民族は原住民を番膏と称し、人刈りを平然と行っていた記録がある、目的は食べることと人体で薬を作り出すこと。
また原住民もよく漢人刈りを行い、狩ったその首を部落内の名誉の基準でもあった。
今やその不遇の時代も過ぎ最も優遇された民族となる、他民族と比べ、学校では点数や仕事では会社にとって障害者扱いと一緒で雇うと会社で税金免除が受けられたりする。
その血生臭い歴史とは別で文化は独特な芸術性を持つ、 漢民族と一線引いたその文化は今や絶好の観光要素となる、

また音楽家、木彫り芸術家、石掘り芸術家、革細工芸術家など、様々な特殊文化が部落ごとに異種美を持つ。そして各部族の伝統祭事が絶好の観光チャンスとなる。艶やかな民族衣装を纏い、祭り中の歌や踊りはまさに異国の地に居ると実感できる。 排灣族(パイワン族)及魯凱(ルガイ)族の陶器と琉璃珠製作、彫刻芸術,布農(フノウ)族の皮製作技術。布農(フノウ)族の多音合唱、阿美(アメイ)族の無半音五声音階が各々の特色である。
食文化として、天然素材と天然調味料を主とする料理は健康そのもの、イノシシ、キジ、飛魚、山菜、キヌア等...特にいま注目されるキヌアは世のすべての栄養素が入っているスーパーフードとして重宝される、2018年に日本から台東原住民に年間2トンを輸入する契約をされたとかで、今年の豊作祭りは彩りのキヌアが見れそうだ!
キヌア栽培について、植物毒であるサポニンを種子の表面に含み、原住民が農作業時に鳥獣による食害を防ぐため農作物の近辺によく栽培される、これは鳥獣が食すと一時麻痺状態になるため、鳥獣は近寄らなくなる。

またキヌアの穂は美しく、塾生時期と品種でいろんな色に変化する、オレンジ、黄色、赤、ピンクと一穂に二色、三色も見かけるほど、収穫時期に部落に訪れる際にはキヌア畑にて記念撮影なんかいかがでしょうか?
自己の文化を持ち、占領されても同化されないことで今では台湾国内で最も観光価値の高い文化を持っている民族である。
客家文化
人口的に台湾第二位の文化グループ客家(ハッカ)文化、日本統治時代ではまた独自の言語を保っていたが、1949年に中華民国政府が日本統治の余韻を無くすために、中国語以外の言語を公共の場での使用禁止令を出してから客家語を使用する人が大幅に減り、文化存続の危機の現在、学校やメディアで客家語を教える政策が進められ、MRTや電車の駅を通知する放送を中国語、客家語、英語で繰り返されるようになった。
現在客家人は 2011年政府の公告では桃園、新竹、南台湾の六堆地区および花蓮台東地区。
その原因としては
清中期から大量移民が台湾へ,先行族との間の利益紛争、水権、土地争い、寺形式等
外族との利益衝突時政府の力が弱いため私闘となり、武力による圧制ができない。
文化差異。
土豪世族の利益争い。
羅漢人(ホームレス)の数が莫大。白日は乞食、夜は盗賊、村では数十、町では数百いたと言われる
清王朝の時代、台湾に渡った客家人は反清王朝勢力として加担される恐れがあるため禁止され、大幅に移民が減った
故に閩南勢力に負けた客家は地方へ散っていた。
歴史的に虐げられた民族として辺境での開墾を余儀なくされ、暴力から一族を守る方法として、土楼という丸い家を建て合理的に外敵から客家文化を守った(かつでアメリカの軍事衛星が大陸全土にあったこの土楼の存在をミサイル発射口だと誤認した逸話がある)、そこで生まれたのが保存食による様々な料理
客家料理は中華料理のなかでも特に漬物と干し物に突出した調理法を有し、他の文化では見ない独特な料理がたくさん存在する。

梅干扣肉(漬菜と豚バラ肉の煮込み)
また、上層魚白は日本の薩摩揚げ、大白菜は韓国のキムチの由来だともいわれています。
閩南文化
人口的に第一位を保持する文化グループ閩南(ミンナン)文化
使用する言葉は台湾語と呼ばれ、政府が規定する北京語以外の第二共通語(またの名をミンナン語)、またこの言葉は今シンガポールで使われる潮州語とほぼ同一言語である、これは移民した先祖は広東の台湾と福建のシンガポールは起源は一つだったと言われる由縁である。
閩南料理
粽子(チマキ), 蚵仔煎 (牡蠣の卵焼き) (遼寧夜市 に推薦店あり)等一般的に知られる台湾料理のほとんどの場合はミンナン料理が多い
外省人(ガイショウニン)
最後に来た移民は国民党政府が連れてきた外省人、かつで第二次世界大戦で日本軍と戦った中国大陸の各省から集まった軍隊が戦に敗れて台湾を反撃の前線基地として一時撤退の予定だった、港に集まった兵隊を台湾全域に用意した一時居留地に住まわせた、後に 眷村 (ケンソン)と呼ばれた、中国各地の文化を台湾全土にばら撒いた形になり。
1990年代以後,眷村の老朽化のためまた若者世帯との結構などの問題で眷村の外省人人口急速に下落し、廃村になるところも沢山出てきた、 黃永阜先生1924年廣東省台山縣生まれ,父親はその村の村長だった彼は
〈2010年〉に自分の村も撤廃されるとしり、ブラシを持って立ち上がりました、頭の中の奇想天外をペンキで壁や床に書き始めた、

大学の教授と学生たちにこの絵を見て、童話的であり、可愛くも在り、捻くれて可笑しいくもあり、とくにその表情等、とにかくグッと来るものが合ったと...,日本漫畫鬼太郎會社も彼を台湾の宮崎駿とただ得た、彼の絵にはヒーリングのパワーがあり人に快楽と感動を、そして心を穏やかにする天生の画家である,また色使いはまさに奇想天外であると...。
そしてここ、台中彩虹眷村は海外観光客にも注目され、去年日本の観光客は125万越え,なんと台北101をも越えた,日本HISまた英国の Culture Trip に台湾で最も訪れたい10選の一つに選ばれる。
様々の民族が様々の文化が争い競う種族のルツボだったこの台湾は、今度は観光で生まれ変わる、争う原因だった文化の違いを逆手にとって、観光価値を最大まで高めるこの台湾は私は大好きだ!



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